桃花落涙



上邪       天地(あめつち)治(し)ろしめす神も聞け
我欲與君相知   私は貴女と共に
長命無絶衰    永遠(とこしえ)に在ることを
山無陵      山は平らかに
江水爲竭     江(かわ)の水尽きるとも
冬雷震震     冬 雷(いかずち)轟き 
夏雨雪      夏 雪降ろうとも
天地合      天地合わさらぬ限り
乃敢與君絶    貴女と共に在ることを

(『短簫鐃歌十八曲』 「上邪」)

   
 

   院子(にわ)の桃花が爛漫に咲き、風がその枝をやさしく揺らしている。
彼女は陽台(テラス)の欄干に腰を掛け、白木の琵琶を静かに爪弾いていた。
栗色の髪、白皙の頬。―――小喬。江東は二喬の妹姫。
しかし高く結い上げていたその髪は解いて肩に垂らし、どの女性よりも溌剌さで 勝っていたはずの瞳は、悲しみで翳っている。



―――耐えられない―――



 だが、爛漫の桃花はそんなことに係わりもなく、ただ枝を風に揺らしている。



―――周瑜様はいないのに、梅花は散り桃花も散ってゆく。周瑜様はいないのに、 梨花は咲き蝉が啼くようになる―――



 知らず、琵琶を弾く手に力が入る。突然、ふつっ、と弦がとんで、彼女の手を切った。



―――痛い―――



 弾き爪も着けずに弾いていたその手に、うっすらと血が滲んでいた。そのまま手を口に 持ってゆき、傷口を舐める。同時に涙が頬を伝って、琵琶の上に零れた。



―――痛いから泣いているのでは、ない―――



 分かっていながら、自分に言い訳をする。
 さりとて。
 泣けば優しく触れてくれたあの温かい手は、もう彼女の肩を抱かない―――。








***********************








―――ねえ、琵琶を弾いて。唄って。周瑜様。



 周瑜が自ら江陵に出征する前、小喬はせがんだ。
 良人(おっと)はまたか、という風に苦笑して肩を竦めたが、照れくさそうに琵琶を取り出すと、 弾き爪を着けたのである。
周瑜が自ら作らせた白木の琵琶は一度音曲を奏でると、どこまでもその響きを広げていく。 柳の木々を渡る風のような周瑜の声を伴うと、やわらかに小喬の耳殻に落ちていった。
―――ふいに彼女は涙を零す。



―――どうした。



良人(おっと)が琵琶を弾く手を止めて、心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。彼女は首を横に 振ると、心中にわだかまった疑問を口にしてしまう。



―――ちゃんと、還ってくるよね・・・?周瑜様。



周瑜は、なんだそんなことか、といった態(てい)で微笑むと、ふわりと小喬の細い肩を抱いた。



―――当たり前だ。



だが、彼女は知っていた。
元々線の細い良人(おっと)の顔が、更に痩せ細っていることを。夜には人知れず吐血して、 苦しむことがあることを―――。



―――そして周瑜は巴丘で死した。
還ってくることは、二度とない。出征からも、黄泉路からも―――。








***********************








―――分かっていた。なのに何故あの時止めなかったのか―――



傷口を舐めて泣きながら、彼女の思考はいつ出るとも分からぬ暗い闇の中に落ち込んでいく。
―――永遠に共にあろうと誓ったのに―――



―――小妹!



突如涼やかな声がした。
気がつくと姉の大喬が膳を手にして立っている。陽台に出されていた卓に、手にしていた膳を 置くと、心配そうな顔で再び妹に声を掛けた。



―――小妹。吃飯了(口馬)(ごはんは、たべたの)?



小喬は力なく首を振った。


―――いらない。


食べなければだめよ。あなたまで痩せて死んでしまうわ―――姉はそう応じたように思う。



―――死?―――



―――それが、いいかもしれない。この琵琶を黄泉に持ってゆけば、きっと周瑜様が迎えてくれる ―――



知らず、小喬はそう口にしていた。
突然バシッと音がして頬に衝撃が走る。琵琶が小喬の膝から滑り落ちて、床で音を立てた。



「いい加減にしなさい!!」



小喬ははっとする。
姉は、涙をためて妹を見ていた。そして悲しそうに目を伏せると、背を向けてその場を去っていった のである。



―――姉が、泣いていた―――



その良人孫策が死んだ時も、涙を見せなかった姉。これまで一度として自分に手を上げたことなどない。 奔放な自分と違って、いつも穏やかで大人びていた。

―――姉が見せた感情の炸裂。
それは、それほどまでに小喬を驚かせていた。




どのくらい時間が経った頃か、分からない。
翳っていた日差しが、やわらかく陽台に射しこんだ。



―――もう、親しい者の死は見送りたくない―――



大喬の心中でしたであろうその声が、ふいに小喬の中で蘇る。
ふわりと暖かな風が吹き、栗色の髪をなでていった。

義兄孫策が死んだ時、姉は悲しくなかったはずが無い。ただ独りで泣き、ただ独りでその悲しみが 去るのを待ったのだろう―――。
桃花の咲く院子(にわ)を見やる。



―――ずっと周瑜様のことばかり考えて、風が暖いとも桃花が美しいとも思ったりはしなかった。 そして―――



小喬は床に落ちた琵琶を拾う。



―――姉の心を思いやることも―――



 卓の上には、大喬がおいていった膳がある。たっぷりと香菜がかけられた白い粥が、 湯気を立てていた。
小喬はゆっくりと胡床(いす)に座ると、その食物に手をつける。温かな熱と瑞々しい香菜の 香りが、じわりと体中に広がっていった。

知らされる。―――己の心と身体はこれほどまでに冷えていたのだ、と。



「美味しい―――。」



 言葉を解放しながら、小喬は泣いていた。
 自分が何故泣いているのかは、分からない。―――だが、それは決して良人について行けなかった 自分を哀れむ涙ではない。
 ぐっと頭を上げ、小喬は空に微笑んだ。



「―――見ててね。周瑜さま」



やわらかな風が、それに応じるように桃花を揺らす。
―――あたかも、周瑜が微笑むかのように。








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