桃花幻想



上邪       天地(あめつち)治(し)ろしめす神も聞け
我欲與君相知   私は貴女と共に
長命無絶衰    永遠(とこしえ)に在ることを
山無陵      山は平らかに
江水爲竭     江(かわ)の水尽きるとも
冬雷震震     冬 雷(いかずち)轟き 
夏雨雪      夏 雪降ろうとも
天地合      天地合わさらぬ限り
乃敢與君絶    貴女と共に在ることを

(『短簫鐃歌十八曲』 「上邪」)

   
 


   ふと、琵琶の音が聞こえたような気がして、周瑜はまどろみから目醒めた。
目醒めてしまって、己は寝返りすらうつこともできぬまま、石のように牀台(ねだい)に 横たわっていたのだと思い出す。



―――もう、己の余命は幾ばくもない―――



そう悟ってからどのくらいの刻が経っただろう。
弱々しい自分の呼吸の音を聞きながら、彼は口許だけで微笑みを浮かべる。
君主孫権に願い出て江陵に向かうその道で、彼は昏倒した。その昏倒を見てからさらに己の 病状は悪化の一途を辿り、ついには横になっていても身体は休息を得ることすらなくなっていた。 夜とも昼ともなく襲い来る高熱は体力を削ぎ、今や手を上げることさえ億劫である。



―――次に血を吐けば、己の身体はそれに耐えることはできまい―――



 白い漆喰が施してあるだけの質素な天井をぼんやりと眺め、周瑜は瞑目する。
 死が、己の身体を侵食しているのだと悟った時、主君孫権と朋友(とも)魯粛には封信(てがみ)を したためた。―――自らの死後のことは、心配するに及ばないだろう。彼らの英知によって呉国は 安寧であるに違いない―――。
 だが―――、と全身から発せられる熱のままに周瑜は呟き、わずかにその首を窓に向け、抜けるが 如き蒼い空をただ見るともなく見上げた。



―――ちゃんと、還ってくるよね・・・?周瑜様―――



もう、その約束を果たすことはできないだろう。妻小喬とかわしたその約束―――。









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―――ねえ、琵琶を弾いて。唄って。周瑜様。



遠征に出る前、小喬はせがんだ。
その時彼はただ、何度も唄って聞かせた曲であるのに、飽きないのか―――と、おどけて その瞳を覗き込んだだけであった。―――しかし生来無邪気な性質(たち)の小喬であるのに、 その時はどこか、すがりつくような真剣みを帯びているのに気がついてしまう。
周瑜は視線を逸らしたい衝動に駆られながらも、やわらかく彼女に微笑み返す。工匠に自ら 作らせた、白木の琵琶。弾き爪を着けて音曲を奏で、自らの声を乗せた。



―――悟られるまい―――



周瑜は無心にその琵琶を奏でた。―――だが―――彼女は涙を零したのである。



―――ちゃんと、還ってくるよね・・・?周瑜様―――



周瑜は何も口にせず、ただ小さく微笑んで、小喬の細い肩をふわりと抱(いだ)いた。



―――当たり前だ。









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―――当たり前だ―――



嘘が、上手くなってしまった―――、と思う。
還られぬかもしれぬ、と思いながら一瞬のうちに微笑みを浮かべていた。
彼女は多分、知っていた。周瑜の身体が刻々死へと近づいていたことを。もう、還って来ぬかも しれぬことを。



―――許して欲しい―――



死が近いかも知れぬと悟りながら、自分が思いのままに生きることを許してくれた妻の、その約束すら 果たすことができない。

―――いつしか周瑜は己と戦うことに疲れ果て、再び浅いまどろみの中へ落ち込んでいった。









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気がつくと、彼は満開の桃花の中に立っている。
哀しげな琵琶の調べがまるで漂うが如くに聴こえてくる。


―――そこは建業の、自分の屋敷だと気がついた。
妻の小喬が陽台(テラス)の欄干に腰を掛け、かつて自分の奏でた琵琶の音曲を静かに 爪弾いているのが見える。



―――小喬―――



桃花の林から、陽台(テラス)に向けて踏み出した。だが彼女は自分がいることに、気がつかない。


―――夢。
周瑜は言葉にならぬ理由で悟る。それは自分の死後のことなのだと。いや、むしろ己のほうが、 その世界の幻(まぼろし)なのかもしれなかった。

 その時、ふつっ、と小喬の弾く琵琶の弦が飛んで、その繊手を傷つけた。
彼女は暫(しば)し呆然と血に滲んだ傷口を眺めていたが、おもむろにそれを口許に運ぶ。
―――同時に、その瞳から涙の粒を溢れさせた。
 また悟る。妻は自分の死が受け入れられぬのであると―――



―――対不起(すまない)。―――



―――彼女は良人の存在にも、ましてやその心中すら気が付かず、ただ涙を流し続ける。
己の言の葉が、決して妻の耳に届きはしないことを、彼はよく分かっていた。だがそれでも彼女の 肩に触れようとしたとき、軽やかな足音がした。



「小妹!」



小喬はゆっくりと顔を上げる。そこには彼女の姐(あね)である大喬が、膳を手にして立っていた。 優しく声を掛けながら甲斐甲斐しく妹の世話をし始める。
―――周瑜は知らず、その場から一歩身を引いてしまう。

 大喬は何度となく妹の許(もと)へ足を運んでいるものであろうか。
 彼女もまたその良人を早くに亡くした身である―――自分が生きていることすら忘れてしまって いる様子の妹には、誰かが傍に居なければならないことを知っているのに違いなかった。

 しかし彼女がどれだけ食事を勧めても、小喬は反応しない。
ついに堪りかねたのか、食べなければあなたまで死んでしまうわ、と怒ったように声を 張り上げていた。
 小喬はようやくぼんやりと反応する。



「―――死?」



 宙を見上げ、一人ごちるように言葉を発する。



「この琵琶を黄泉に持っていけば、きっと周瑜さまが迎えてくれる―――」



 周瑜は目を見開いた。



―――誰が君の死など、望むものか!―――



 まるでその言に応じるかのように、突如大喬が妹の頬を打った。



「いい加減にしなさい!!」



 白木の琵琶が床に飛び、小喬ははっとしたように姐(あね)の顔を凝視した。
 大喬の目には涙が溜まっている。―――彼女はふいと妹から視線を逸らすと、背を向けて 去っていった。



 小喬は、普段は穏やかな姐の感情の爆発に驚いたのか、ただ呆然とそこにあった。
―――陽台は、まるで何事もなかったかのように静寂に包まれる。
 周瑜は、黙って彼女を見守った。―――もとより。今そこに在りながら肉体を持たぬ彼である。 妻にしてやれることなど、見守る以外に何一つありはしなかった。


 静かな陽台に、ただ刻は音もなく流れていく。空に浮かぶ雲もまたゆっくりと流れ行き、 翳っていた陽の光が陽台(テラス)に差し込んだ。



 小喬は突如、何かに気が付いたように、陽台の欄干から立ち上がり、桃花の咲く院子(にわ)を 凝視した。
 彼女の瞳に、陽光が差し込んでいく。



   小喬はおもむろに、陽台に据えてある卓に着いた。―――そこには、大喬が置いていった 膳がある。彼女は香菜のかけられた粥を含みながら、手を止めた。



 
「美味しい―――。」



   再び、涙を溢れさせる。
 周瑜には分かった。―――それは、自分を失くした悲しみを解放するための涙なのだと―――。 彼女が独りで生きていくための涙なのだと―――。



 頭(こうべ)を高く上げ、小喬は独り空に微笑む。



「―――見ててね。周瑜さま。」



 周瑜は妻の細い肩を抱(いだ)いた。―――かつて在りし日、そのままに。


 月日が経てば、遠くに住まう者を思うが如く、彼女は穏やかに己を思い出してくれるだろう。 喩え同じ時の流れを歩むことは出来なくとも―――



桃花が、やわらかく風に揺れる。



―――私は、永遠(とこしえ)に君と共に在る―――天地合わさらぬ限り―――








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―――建安十五年十二月。
周瑜は三十六歳の若さで巴丘に死した。病に苦しみぬいたはずであるのに、血華の中 その死に顔は安らかであったという―――














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