天蓋花抄 

 



    薤上露 何易晞    葉に降りた露は とてもかわきやすいもの
露晞明朝更復落    露がかわけば 朝にまた降りているけれど
人死一去何時歸    人が死んだら もう二度とは帰らない

(「薤露」 無名氏)







 益州成都。
 その城市(まち)の内城から、手綱捌きも鮮やかに駆け抜けていく、ひとつの騎影があった。
 新緑の色彩をした戎衣(いくさぎ)、しなやかな身のこなし。城門の警護隊はその姿を認めると、 全員が拱手の姿勢をとり、一歩後に下がる。馬上の人物は軽く速度を緩めた。


「お役目ご苦労―――」


 中原なまりの涼やかな声が短く響き、その人物はそのまま城門の向こうへと駆け去ってゆく。
 警護隊の中に、徴兵されて間もなく城門警護隊に配属されたばかりの若者がいて、貴人の通過に ようやく気が緩んだのか息を吐き出し、今のは誰なのか―――と年配の兵士に尋ねた。

あのお方こそが姜維将軍なのだ―――と、年配の兵士は姿勢を正す。

 そして、忠武侯と諡(おくりな)された丞相諸葛亮亡き後、蜀漢の軍を動かし、守護を担う 鎮西将軍―――その人なのだ、と付け足した。
 その武人が去った方向を見据え、彼は驚いたように声をあげる。貧農の出である彼にとって、 まさに雲の上の人に等しい。貴人とは、あれほど涼やかで颯爽としたものなのか、と思う。
―――だがその颯爽たる容姿とは裏腹に、一瞬見えたその目元にどこか虚ろなものを垣間見た ような気もして、軽く首をかしげた。


―――将軍はなにか苦しんでおられるのではないか―――


 その時、警護交代知らせる鉦(かね)が響いた。新米兵士の仲間たちが彼に声を掛ける。

 声を掛けられた兵士は仲間の声に手を挙げて応じると、独り苦笑した。
 たとえ、仲間たちにそのようなことを言ったとしても一笑に付されるだけであろう。自分の ような下々に貴人の苦しみなど知る由もないのに―――彼は心の中でそう呟くと、仲間たちと 共に兵舎へ戻る支度を始めたのである―――










**********








 ―――姜維は成都の城門を出ると、ただひたすら真直ぐに馬を駆っていた。
四川盆地を囲む峻厳なる山々を独りでこえようとするかのように。ただ路(みち)のあるがまま、 彼は馬を駆り続けた。
 だがしばらくして、辺りの景色が自分の知らないものになっていることに気がつくと、ようやく手綱を 軽く引いてその速度を落とす。愛馬の首を軽く叩いて労(ねぎら)ってやり、近くの小川に導く。
彼は嬉しそうに嘶いて、美味しそうに水を飲み始めた。





姜維は周りの景色に目を向ける。―――山々の際まで連なる一面の水田。故郷とは違い、薄くけむった ような大気が年中立ち込める、その土地。もやの向こうに見える集落の民家から、炊事を始めたものか、 か細い煙がたなびき始めていた。


 
「丞相―――」


知らず、彼は呟く。
―――直接には仕えたことのない先主劉備が、「漢王朝の再興」を掲げてこの国を建国してから 二十数年を数え、彼が老師(せんせい)と仰いだその人物が亡くなってからは十余年が経つ。
―――その夢は、自分たちに受け継がれた―――はずであった。



―――だがどうだ。



誰もかれもが総てを諦めたかのように、この土地に安住している。



―――中原を制し、中華全土に号令するのではなかったのか。



すると、尊敬する先輩であり、録尚書事である費褘は言う。


―――我々は丞相にははるか及ばない。その丞相でさえ中原を平定し得なかったのだ。我々に 至っては問題にもなりはしないだろう。まずは国力を充実させ、才あるものの出現を待ってから 功業を立てればいい―――


姜維は静かに、拳を握る。



 
―――解っている。だが―――



今ですら、皆が皆、夢見ることにすら疲れ果ててしまっているかのようであるというのに。 これから更に年を経て、その夢を記憶しているものは、あるのだろうか。


彼は瞑目する。


  姜維は、今も鮮明に記憶を蘇えらせることができる。師の在りし日を。五丈原の戦場(いくさば)で 手渡されたはずの、その夢を―――。



―――悔しいのだ―――



彼は天を振り仰ぐ。


「人が死すれば、一体その夢はどこへ行くのか―――」


人が見た夢もまた、土に帰すというのか。



―――そのことが、悔しいのだ―――



突如、風がざわめきを発し、あたりをさわがして霧を散らした。温かな陽射しが、わずかに 地上へと降り注ぐ。―――彼は靡く髪に手をやり、目を細めた。


辺りには紅い花が、点々と滴り落ちた血のように群れ咲いている。
かつて、浮図の民が言っていた。―――この花は、天竺の言葉で曼珠沙華というのだと。 地上でなく天上に咲く花なのだと―――

知らず、その一輪を手折る。



「たとえ、誰が忘れてしまおうとも―――」



ことさらに語気を強め、彼は手折った曼珠沙華を小川の中へ投げ入れる。



「―――俺は忘れない―――」



 紅い大輪の花は、その流れのままに流されていった。
 それは時を経て東の海に流れ着き、いずれ彼に夢を与えた偉大な先達がいる冥府へと――― たどり着くだろう。


力強い意志を湛えたその瞳に、天上の紅(くれない)が宿る。


姜維は愛馬に騎乗し、峻厳に連なる山々を一瞥する。やがて力強く鐙を打つと、成都の城門へと 愛馬を駆りはじめた。






 
曼珠沙華の血の色を―――虚ろなる死者の夢を―――その瞳に携えて。

 
 


 
 
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