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遭遇猛虎
許都に一人の占いの上手がいた。名は管輅、字を公明という。
ただの売卜の徒ではない。その知識は天文学、哲学、陰陽学に通じた限りない 教養の持ち主でもある―――。
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薄くけむる朝霧の中、彼は逍遥していた。
清らかなる陽光を浴び、鳥の声に耳を澄ます。草々の露を踏み分け、澄んだ風の匂いを 体内に取り入れる―――
それは彼の通常の日課であった。いや日課、というには言葉が足りぬかもしれない。
星辰の鳴動を感じとり、人ならぬものと接し続ける彼には、人間としての感覚を研ぎ澄ます 重要な儀式だといえた。もしこの逍遥をやめてしまえば、管輅の心はたちまち鬼神の言葉に 引きずられ、彼でないものと成り果ててしまうだろう。
―――己は己以外の何者でもないのだ、そう五体にいいきかせて土を踏み分けていく――― だがその時、背後に馬の蹄を聞き、歩む足取りを止めた。
相当な悍馬。それがこちらへ近づいてくる―――。
―――私を追うのは、誰か?―――
地祗(とちがみ)に問うてみるが、それには応えない。そのくせ何かおかしな警告を発している。 そこに哀れみの色を含んでいる、と感じるのは、覡(おとこみこ)としての感覚が鈍ってしまっている ためなのであろうか。
悍馬は疾風(はやて)の如く管輅を追い越すと、前方に回り込んで彼の進路をふさいだ。馬が嘶き、 激しく蹄を打ち鳴らす。―――そして。馬上の人物は自分を見下ろしていた。
短い髷、身の丈八尺余り、胴回り十囲の巨躯。手にしているのはその体躯と大きさを同じくしようか という巨大な砕棒。―――音にも聞く。上古の魔神蚩尤をも打ち砕いたと伝えられるその武器を扱えるのは、 当代にただ一人であると。魏朝からの召喚を受けた時も、忠実な番犬のように曹操につき従うその姿は、 確かに印象的であった―――。
許褚、字は仲康。同僚の将からは親しみを込めて「虎痴」、宿敵からは脅威をもって「虎侯」と呼ばれる その武将は、下馬すると管輅に声をかけた。
「あんたが、管輅だな〜」
管輅は動じることなく一礼して許褚を見据える。
「是(はい)。何か貧道(わたくし)に御用がおありでしょうか」
地 祗(とちがみ)はその場を去ったほうがいい、と警告を発し続ける。 だが許褚はそんな管輅には拘りなく、間延びした声で用件を告げたのである。
「おいらの為に占ってくれねえかなあ〜」
占卜(せんぼく)を生業とする管輅である。そのように頼まれるのは不思議なことではない。 だが、許褚といえば中華三国に比類なきをもって知られた剛勇である。はたして占いをもって 何を気にかけるというのか―――。管輅は分からぬままに興味を持ち、地 祗(とちがみ)の警告を 無視して話を続けてしまう。
「将軍が参戦される戦の勝敗、―――もしそのようなことならお答えはできませぬ。戦は人の行う ことですゆえ、人が答えることはご勘弁願いたい。」
だが許褚は目をぱちくりと瞬いた。
「戦なら、曹操様が勝つに決まっているだろ〜。そんなことじゃあないだよ。」
―――地 祗(とちがみ)の言うとおり確かに訝(いぶか)しい。なんだというのだ。 管輅は眉間に皺を寄せて、短く問い返した。
「では―――?」
許褚はうん、とひとつ頷いてそれに応える。
「西暦2002年、阪神タイガースは優勝できるかどうかだよ〜」
―――は?―――
前後にたっぷりの余白をとって真っ白になった後、管輅はようやく口を開いた。
「―――あの?将軍??それは歴史考証を無視して―――」
管輅が科白(せりふ)を言い終わらぬうちに彼は襟首を掴まれて宙に浮く。
許褚の顔は逆光によって漆黒に翳っていた。しかしその眼球だけが一瞬、 カッとまぶしく光を放つ。
「阪神ファンに国境も時の流れも関係ないだ〜」
その時、管輅はようやく理解した。「虎痴」「虎侯」の二つ名の訳(わけ)を。
そして見た。夢であったかもしれない。だが確かに見た―――。
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