江波遥遥




騎乗した若武者が、長江沿いの路を駆けていた。
秀麗な目許、細面の顔立ち。だが白銀の光を放っていた であろう彼の甲冑はすでに泥にまみれ、その表情はどこか憂いを帯びて見えた。馬を逸らせながらも その目は何を探しているものか、絶え間なく辺りを窺っている。
 すでに馬は呼吸も荒く、どの位の時間をそのように費やしてきたものか、彼自身の額からも汗の雫が滴っていた。
 だが。ふと通過しようとしたその河縁(かわべり)に、その辺りには似つかわしくない悍馬が草を食んで いるのを見つけた。彼は眉を顰(ひそ)め、馬を降りて分け入っていく。

 そこにはやはり。戦袍(いくさぎ)に身を包んだ若者が、独り河に向かって佇んでいた。その手に剣を 握りしめて。

 
―――権殿。お探し申し上げました―――


そう言いかけて甲冑の若武者―――周瑜は口を噤んだ。今、孫権が何を見、 何を想っているのか。それが判った、と思ったのである。
 それ故に。周瑜もまた長江に向かい、その流れを眺めることで孫権への呼びかけに代えた―――。



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 小覇王と謳われた若者がいた。名を孫策という。
 その父孫堅の死後、遺臣たちと共に兵を挙げると、瞬く間に江東の割拠勢力を平らげた英雄である。 だが建安五年、その孫策も華北進撃の折に刺客の襲撃を受け、瀕死の重傷を負うことになった。


孫策は、末期まで甲冑を纏って家臣たちの面前に座していた。そして弟の孫権を見据えると、父から受け 継ぎ自らも覇業を誓ったという剣を託して、逝ったのである。



 

―――お前ならできる―――



 この時孫権十八歳。形見の剣を受け取りはしたものの、悲しみを裡にして剣を受け継ぐことの重圧に堪え かねていた。
 そして。誰に何を告げることもなく、彼は一人城を出ていったのである―――。




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 どの位の刻がたったのか、分らない。孫権が口を開いた。


「―――なあ周瑜。この長江の向こうは父上と兄上が望んだ大地だ・・・。」


「是(はい)」


「俺もあの川向こうの大地を望んでも良いものか、と天に問うてみた。」


周瑜は黙って孫権の横顔を見続ける。


「俺はただ、父と兄の背中についていけばよいと思っていた。及ばずながらずっと二人の覇業の 手伝いをするのだと思っていた。だが兄が逝って、俺自身の目で川向こうの大地を見据えねばなら なくなってしまった・・・。」


孫権はふと微笑を浮かべた。


「本当はな、天が俺をとるに足らぬ漢だと言うならば、この剣を長江へ投げ捨ててやろうと 思っていたのだ。」


だが武人たちが代々愛用してきたその剣は、彼の手にしっかりと収められている。
では―――。周瑜は目を見開いて孫権を見た。
孫権は大きく息を吸って言い放つ。


「俺も、中華すべての大地が欲しい。一人の漢として。」


 川風がどっと草叢を渡って押し寄せ、二人の若者の髪を大きくなびかせた。翳っていた陽が辺りを照らし、 長江の水面を煌めかせる。


「周瑜。ついてきてくれるか。死んだ兄にではない。この俺に、だ。」


呼びかけられた若武者は刮目した。―――すぐさま大地に膝をついて拱手する。


「非才なる身の総てを賭けて―――」


 周瑜は歓んでいた。
 小覇王と呼ばれた親友。その激しくて短い生を周瑜は忘れない。忘れることは出来ない。 しかし、彼はもうこの世にいない。
 

 ―――孫権自らが天下を望む。

 そのことで自分も家中の臣たちも、生者の夢に身を託すことが出来る。いずれは皆が孫策の死を、 遠くで流れる川のように想うことができるだろう。一抹の寂しさを胸に去来させながらも、周瑜は確かに それを歓んでいた。


「非才なる身の総てを賭けて―――」


もう一度、周瑜は呟いた。
 孫権は長江から吹く風を心地よさそうに受け、周瑜の言に頷いていた―――。







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