胡弓幻想

 
   
 

   院子(にわ)を歩いていた呂布は、伸びやかに唄う胡弓の音色を耳にして、その足を止めた。
弾き手は、向こうの四阿(あずまや)で奏でているものであろうか。


―――海を唄い、雲を唄う。


 音楽のことなど、呂布は分からない。だがその音色は空を伴うと、彼の心を抱くように包み、どこまでも 広がっていった。
 呂布は西方の産(うまれ)で、海を見たことが無い。だが果てしない故郷の大地のかわりに、どこまでも 水の広がりが煌めいているのだろうと思うと、とてつもない躍動の力が身体に満ちてゆくような気がした。


ふと雲が陽を翳らせ、つがいの水鳥が池の水面から羽ばたく。―――はたり、と胡弓の音も止んだ。



「誰呀(だあれ)?」



西方渡りの玻璃(ガラス)を弾くような声が、呂布の心を震わす。
四阿から現れた、たおやかな人影。鬢に挿した大輪の牡丹。故郷の晴れ渡った夜空のような、 漆黒の瞳。
その女性(にょしょう)は呂布を見つけると、長い睫毛を伏せて俯(うつむ)き、憂いを含んで やわらかに微笑んだ。





風が、竹林をわたってさらさらと鳴る。
それが、男女の邂逅であった。









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 虎牢関には雪混じりの冬風が吹きすさび、兵士たちの心まで凍てつかせていた。


吐く息が白い。愛馬赤兎馬の歩を進めながら呂布は、隣で馬を操る女性に、 寒くはないかと声をかけた。


―――妾(わたくし)も、北方の育ちですから。


ふわりと微笑んだ彼女の名を、貂蝉という。自分を慕っている、と言いながら董卓に差し出された 女性(にょしょう)―――。





 戦の前、突如彼女は願い出た。



―――お供しとうございます―――



呂布は軽く眼を見開いて彼女を見た。やわらかな眼差しが己を撃つ。
漆黒の、憂いを含んだ瞳。それは初めて邂逅したときと同様、故郷の夜空を想起させてやまないのに、 なぜか全く知らないものであるような気も抱かせた。


自分と共に、あろうとしてくれているのではないのか―――。


そんな疑問があることにすら耐えられず、呂布ふいと顔を背ける。



―――董卓殿のお許しは、あるのか。



   彼女は頷いたようであった。
風に吹かれれば折れてしまいそうな風情なのに、この女(ひと)は決して 弱くない。錘を自在に操り、戦場(いくさば)では並みの男など到底かなわぬ働きをするのだ。


そこまで思い出して、口の中で呟いていた。ついてくるがいい、と。









********************









 董卓軍中に、味方敗走の報が次々と入ってくる。既に近辺からは戦士たちの怒号や剣戟が交わる 音が聞こえていた。
 呂布は未だ押し黙って動かない。
 所詮、敗れた軍は弱将に率いられた羊の群れに過ぎない。本当に踏みとどまる強さを持った軍が 残るのを待って、一気に連合軍を蹴散らせば、よい。
 しかしそう思っていたのも束の間、貂蝉が前線に送られたという報が入った。呂布の表情が鬼神の如く に荒ぶる。
敵の士気も鈍ろう、という義父董卓の計算らしいが、かの女(ひと)を愛でながら、戦になればまるで 碁石のひとつのように扱うその汚さを嫌悪した。董卓はかの女(ひと)を守らない。



―――ならば、俺が守る。


 呂布は心中で強く思い、口の端を上げて不敵に笑みを浮かべた。赤兎馬の腹を蹴って軍中を振り返る。



「ふん、出るぞ!!」



 ―――戦場での呂布は、落雷に等しい。
 ただの一喝で多勢の敵を竦ませ、無造作に愛用の方天画戟を振るいながらも、手にかけた獲物は一撃で 絶命に導く。左右には勇将張遼、「陥陣営」高順。冠には長い羽飾りを付けて、兜すら着けることがない。 本来戦地では標的にならぬよう目立たぬ工夫をするものだが、そのようなことは彼にとって全く無意味 なのであろう。
 劣勢の軍勢が次々と士気を上げてゆく。しかし彼はそれすら気にも留めず、己の思うまま返り血を撥ね、 死体の山を築きながらひた走った。



―――貂蝉。



かの女(ひと)は東門から攻め寄せる軍勢を前にして錘を振るっていた。彼女を守る兵はもうほとんど いない。



「貂蝉・・・!!」



いつしか声に出して叫んでいた。
返り血と剣隙の中、何故かかの女(ひと)は、そこが戦場ではないかのように、ふわりと優しく振り返る。
呂布は、貂蝉が憂いを含んで微笑むのを見た。―――初めて邂逅した時のように。





―――何故―――





次の瞬間、一人の剣兵が背(せな)から彼女を刺し貫いていた。



「―――あ・・・。」



 貂蝉は漆黒の眼を見開くと、膝をついて倒れこむ。
 お父様。これで、宜しいのですね―――自らの血によって真紅に染まった口の中で、 彼女は呟く―――が。あまりにも小さな絶命の言葉は、誰にも聞き取られることはなかった。





満足の死である―――それは、彼女にとって。しかし。





「貂蝉―――!!」





呂布の周りではいやにゆっくりと景色が流れ、全ての音が掻き消えていた。
貂蝉の死。死。死。―――嫌だ。信じられない。信じることはできない。








 ふと気が付くと、呂布は彼女の亡骸を抱き、血の海の中、独りで方天画戟を振るっていた。 周りには動くものなど、何一つ無い。元の形が分からなくなった敵の屍だけが、累々と辺りに 散らばっている。
戟を放り出し、細柳の身体を掻き抱く。冷たい。この呂布が守ると、誓ったのに。喉の奥から搾り 出すように、慟哭した。



「貂蝉、貂蝉・・・。何故戦場に出たのだ―――」



そうだ。命じた者が居たからでは―――無かったか。



「董卓、お前が行かせなければ―――」



かの女(ひと)を、まるで碁石のひとつのように扱った董卓―――。守ることの出来なかった己への 怒りが心中で雷雲となり、形をとって外へ迸(ほとばし)った。



「・・・貂蝉の仇、―――取らせて貰う!!」



 既に稲妻の化身と化した呂布は、電光石火、諸将を伴い虎牢関に取って返す。
 呂布の耳には今も離れぬ調べが呀(こだま)する―――。











まだ見ぬ海を唄い、雲を唄う胡弓の音。竹林をわたって鳴る風。漆黒の瞳。













―――調べを奏でる女(ひと)はもう、いない。











 

 


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