赤き戎衣の軍師は回廊の柱に身をもたせかけ、満ちた月を眺めている。伸びやかな胡弓の音が響き、
戦勝の宴は今にも佳境にさしかからんとしていた。
闇夜の下、楼船の上。赤き戎衣の軍師が、思案の中にいた。
長江に沿って、長くのびきった敵陣。それを眼下にして、陸遜は誰に聞かせるともなく呟いた。
諸葛亮とは本来、補給線の整備を誰よりも完璧にこなす事で勝ち続けてきた軍師であったはずだ。
この陣形はその諸葛亮どころか、軍略を学んだものの仕事ですらない。
確信を得た双剣の大都督は、今度こそ声高に伝令兵に命じた。
敵陣の背後に回った朱然は、兵たちに合図を送った。次々と火矢が放たれていく。
乾燥しきった大気に風を受け、十重二十重の陣があっという間に炎の海に飲み込まれる。
呉の諸将たちは伝令を受けるまでもなく、闇の中に輝く火の河を目視して陸遜の作戦の成功を確認した
のであった。
蜀軍は各地であがる追撃に浮き足立ち、総崩れで馬鞍山に後退を始める―――。陸遜はさらに機を逃さず、
全軍に檄を飛ばす。
「本陣、孫尚香隊、甘寧隊、は北上して追撃して下さい!呂蒙隊、程普隊、そして我が隊は、馬鞍山の西に
回って蜀軍に挟撃をかけます!」
全軍は陸遜の鮮やかな指示に沸き立つ。肥沃な荊州は今や呉国の手中なのだ。
その時の戦勝の予感は、天下統一への夢の架け橋のように思えてならなかったのである―――。
だが陸遜は既にその席を立っており、只ため息をついてそこに在る。
「どうか、したのですか?勝ち戦の立て役者はどこだと、殿が探しておいででしたよ。」
涼やかな音階の言に陸遜は振り返り、困ったように笑顔を浮かべた。
「これは、大喬様。―――酒気に中(あた)ったようなので、逃げ出してきたのですよ。
殿がお探しなら、そろそろ戻ります。」
規律正しい足取りで、若き大都督が歩み去ろうとした、その時。
ふと、足音が乱れてしまう。
しまった、と思う。大喬は勘がいい。女性の身でありながらも幾多の戦場を疾駆して、
無事であるどころか歴戦の勇者の働きをする。それもこの勘ゆえであるのだろうか。
まず、ごまかすことはできまい。ごまかせば逆に誤解を招くだろう。
ふうっ、と再度ため息をつく。
「大喬様には敵いませんね。実はこのところ、少々体が思い通りにならぬのです。
いえ、ご心配には及びませんが。」
いつも軽快な軍師が、体が思い通りにならぬという。「少々」のことではないのだろう。
「やはりそうですか・・・。しかし無理もありませんね。陸遜殿は、此度の戦の残務処理に総て
係わっていると聞き及びます。それは働きすぎ、というものでしょう。」
戦の機を見るに敏な軍師でも、己の身体のことには驚くほどに疎い。
それはまた、身を粉にして尽くし続ける者の悲しさでもあった。
「呉の大都督は激務によって四代続けて体を壊した、と言われては堪りませんね。一段落したら、
殿に暫しの休みを願い出てみようかと思います。」
大喬はにこりとして応えた。
自分や妹の良人(おっと)のように、呉国のことを真に思う
士を早逝させる訳にはいかない。それが残されたものの役割だと、大喬は心得ている。しかし。
「そうかー・・・、八卦陣で、空に浮かぶ白い物体を見た後しばらく記憶がなくて。
その時から命令するような声が聞こえたり、背中で何かが蠢くような感じがしてたんですが・・・。
そうかー、働きすぎだったんですねー。」
大喬は青ざめたままおもむろに右手を伸ばすが、わずかに及ばない。
―――陸遜は月明かりで大喬の顔はよく窺えないものか、やけに納得したような表情を浮かべると
再び宴の席へ去ろうとした。
身を翻した軍師の首筋に、月光を浴びて光るもの。
生身の肌に、ファスナーの金具。
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