合肥戦異譚



 煌めくような緑と青が、悠々たる夏の天地を彩っている。
 中華を守る五岳のひとつ黄山を眼前に、太史慈はひとり馬上に居た。 その峰を越え長江を渡れば、魏との国境の城市(まち)合肥に出る。
太史慈を含めた呉軍の将軍たちは、さらなる進軍に備えて、兵士たちにつかの間の 休息を取らせていた。


―――それゆえに、戦の前に天地の彩(いろどり)など楽しむ余裕が出来てしまったのだ、 と自分に言い訳しておいて、彼は只ただその美しさに魅入られていた。


   
―――天も地もかように美しいのに、何故人は争うのか―――



 答えなど、出るはずもない。しかし戦の中に自らの身を沈め続けたせいなのか、形のない疑問が 全身に沈殿しているのも確かだった。
 すると軽やかな蹄の響きがして、隣に馬を並べた者がいる。呂蒙である。が、馬を並べたのみで 何も云わない。僚友はまた眼下の景色に何を見るのであろうか。耐えかねて、太史慈は口にしてしまう。


「此度の戦、呉の命運をかけたものになろう。―――我が命を懸けるにふさわしい」


呂蒙は自分を覗き込んでいる。


「縁起でもないことを。命を粗末になさるなよ」


 彼はそう云っておいて、含めるがごとく何度も頷いた。そうか―――と、太史慈は心の中で のみ呟いて、ああこいつは己の迷いを嗅ぎ取っていたかもしれない、自分は天地に魅入られる にはまだ早いのだろう、と少し思い直した。


「これを召されよ、勝ち戦の前祝だ」


いつの間にか、鞍から酒の入った瓢箪と漆塗りの馬上杯などを持ち出して、太史慈に注ぐ。
「士、三日会わざれば刮目すべし」。そう豪語して以降か、雅な趣味のある呂蒙なのであった。


「有難く頂戴する」


夏の大気の中、その酒は温まってはいたが、太史慈の全身を心地よく潤した。


「さ、兵士たちに進軍を伝えようか」


そうして各々(おのおの)は軍中に身を翻したのである。








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 こうして始まった建安20年、合肥での魏呉の戦は、まさに凄惨を極めた。
 華北平原を手に入れたい呉、その北上を食い止めて南下を果たしたい魏。そのどちらもが 譲ることもできず、各々の士気はいっかな下がることはなかった。
 太史慈の周辺でも阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていた。いや、彼が作り出していた、 というのが相応しいであろう。馬上より自在に繰り出される斬撃は、屍の山を作り出し、彼自身は 返り血によってさながら鬼神の如くであった。


 それゆえに。彼は戦の大局を見失っていた、と言ってもいい。いつしか護衛と分断され、 民家の間(はざま)に誘い込まれていたのである。


 一人の兵卒に絶命の一撃を浴びせたその時、太史慈は背中に衝撃を受け、眼前にいくつもの 火花を見た。これは―――、と思ったとき声がした。
魏の宿将、張遼。


 「かかったな、太史慈!」


 罠―――!襲い来る眠気の中、口惜しさの波が絶叫となって迸(ほとばし)る。


 「ぐっ・・・、ぬおぉぉぉぉ・・・・!!」


 矢の雨の中その場をのがれようと、力を振り絞って馬を駆る。追撃の矢が更に彼に降る。 張遼の声が遠くで聞こえた。


 「待て、手ごたえはあった。追い討ちは無用だ・・・」









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「志なかばというのに・・・、無念―――・・・」


 主君の顔、今日も酒を振舞ってくれた呂蒙の笑顔などが次々と浮かぶ。ああ今、自分は この広大な天地に還ってしまうのだ・・・、皆に済まない―――。
 音もなく、やけにゆっくり時間が進む中、太史慈はようやく前方から追いすがってきた 護衛兵を見た。お前たちにも、済まない―――。
 が、太史慈は信じられないものを見た。護衛兵は何かを掲げている。戦の前に、持つように 言っておいた戟ではない。







プラカード。しかもそこに書いてある文字は・・・、





   

「ドッキリ」







    ふと、背中の矢に目をやる。やられた。吸盤付き。 では、この眠気は・・・、呂蒙の酒か・・・!


 護衛兵の後ろから魏呉の宿将たちがやけに嬉しそうに近づいてくる。その中に帰り草の花束を持って 立っている曹操の姿を見た時、太史慈は自らの意志をもって落馬し、眠気に身をまかせることにした。





 もうこの顛末を見ていたくない・・・、と思ったかどうかは定かではない。




   ―――天地は只、悠々とその姿を保つのみ。






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