―― 1 ――
四阿(あずまや)に、一組の男女の影があった。
時は夏の盛り、日が傾いて幾分涼しくはなったものの、
蝉の声は耳殻に呀(こだま)するほどに鳴り響いていた。男がおもむろに口を開く。
「これを・・・。」
後世に稀代の詩人とも讃えられた男であるのに、語る言葉は驚くほどに少ない。男の名は曹丕、
字を子桓という。後の魏文帝である。
女は真鍮飾りの付いた黒檀の箱を受け取った。
女――彼の妻甄姫――は怪訝そうな表情を浮かべて箱の蓋を開く。
「先の戦で手に入れたのだ。そなたにしか、使いこなせまいよ」
一ふりの笛が姿を現す。只の笛ではない。ずしりと重い金細工に、碧玉紫玉をあしらったもので、
彼女の手に吸い付くようになじんだ。
「あなた、これは」
彼女は動揺を隠せない。
「殷王武丁の妃、婦好が使っていたもののひとつで、銘を『月妖』という。
古(いにしえ)には女性(にょしょう)も当然のように戦場に出ていたらしいが、
彼女はこれを用いて先陣に立ち、多くの異民族を平らげたそうな」
「そのようなものを、妾(わたくし)が・・・、」
「―――先ほども云った。これはそなたにしか使いこなせまい、とな。もっとも・・・」
と云い置いて、彼はついと甄姫に背を向けた。
「それは、兄弟笛の出来の悪い方なのだそうだが」
甄姫は、はっとした。夫は比べている。笛のことではない。自分自身と弟の曹植を、である。
曹植も父や兄同様に詩文に長け、唐代になるまでは詩聖の名をほしいままにした天才である。
武人であるのにどこか陰にこもった兄と違い、天真爛漫なほどに開放的な彼は、臣下の間で「殿のご自慢の
息子」と、専らの噂だった。
―――そろそろ殿も後継ぎをお決めにならなければ―――。
そんな話と一緒にされるようになった頃には、曹丕という息子の存在は、父曹操の目から完全に
消えているようにさえ見えたのである。
しかし、と甄姫は思う。曹植は後を継ぐことはできまいし、本気で継ぐ気はあるまい、と。
曹植が大切なのは飽くまでも詩中に飛び交う言霊であって、地上の争いごとではない。
曹操もそれに気づいている、と。それは一種の勘のようなものではあったが、彼女の中には
確信として存在していた。
「どうした?」
気が付くと夫が覗き込んでいた。ふ、と笑顔をつくって応える。
「妾には、出来の悪い方が好(よ)うございます。それが為に、笛も妾も戦う努力を怠らずに
居られます故。」
見上げた顔には、どこかはにかんだような眼差しがあった。つ、と彼は彼女の目許の黒子(ほくろ)に
手を触れる。
「―――武運を。無事に、還って来い」
いつしか上弦の月が彼らを照らし、蝉の声もまた静寂にかわっていた。